庚申信仰は青面金刚を本尊とし、このような掛轴画も多数作られた。この画では中央に青面金刚を描き、上に日月、左右に猿、下に鶏を配している。庚申と三尸説
详细は「庚申」を参照
中国道教の教説である三尸説とその行事の守庚申が日本に伝来して、习合と复合して広まった。庚申(かのえさる、こうしん)とは、干支(かんし、えと)、すなわち十干・十二支の60通りある组み合わせのうちの一つである。阴阳五行説では、十干の庚は阳の金、十二支の申は阳の金で、比和(同気が重なる)とされている。干支であるので、年(西暦年を60で割り切れる年)を始め、月(西暦年の下1桁が3・8(十干が癸・戊)の年の7月)、さらに日(60日ごと)がそれぞれに相当する。庚申の年・日は金気が天地に充満して、人の心が冷酷になりやすいとされた。
この庚申の日に禁忌(きんき)行事を中心とする信仰があり、日本には古く平安时代に移入された。
歴史
フォトグラメトリ(SfM/MVS)で作成した、石上峠(静冈県静冈市清水区西里)にある庚申塔(明和八年 (1771年) 造立)の3Dモデル
庚申経(老子守庚申求长生経)が三尸説や守庚申を记述していて、平安时代に伝わり、庚申信仰の原点となったと推定されている。これは、天台僧の成寻が唐留学时に覚书として集め、园城寺(三井寺)に唐から送り纳めた资料だとされている。
遣唐使に伴い唐に留学したが、上陆して唐朝に短期留学の请益僧だと制限强化で天台山行きを拒否されて遣唐使一行から离脱し、中国内を山野と庶民间と寺を独自に旅して修行して学んだ円仁が、『入唐求法巡礼行记』838年(承和5年)11月26日の条に〈夜、人は咸く睡らず。本国の正月、庚申の夜と同じきなり。〉と中国の僧侣、贵族だけではない庶民も含めた、冬至の夜に眠らずに过ごす风习を见て日本の正月や庚申の夜のようだと、言及している。
平安时代の贵族社会では、この夜を过ごす际に、碁・诗歌・管弦の游びを催す后に「庚申御游(こうしんぎょゆう)」と称された宴をはるのが贵族の习いであった。最も早い记録では清和天皇の代に贞観5年(863年)11月1日の庚申に宫中で宴がもたれ、音楽が奏せられている。9世纪末から10世纪の顷には、庚申の御游は恒例化していた。やがて「庚申御游」と呼ばれた平安时代末期には、酒なども振る舞われるようになり、庚申本来の趣旨からは外れた游兴的な要素が强くなった。鎌仓时代から室町时代になると、この风习は上层武士阶级へと拡がりを见せるようになった。『吾妻镜』(鎌仓幕府の记録书)にも守庚申の记事が散见される。また资料としてはやや不適切かとも思われるが、『柏崎物语』によると织田信长を始め、柴田胜家ら重臣20余人が揃って庚申の酒席を行ったとある。さらに度々途中で厠に立った明智光秀を鎗を持って追いかけ、「いかにきんかん头、なぜ中座したか」と责めたとある。
やがて守庚申は、庚申待と名前を変え15世纪中期顷から、会食谈义を行って彻宵するが、いっぽう本尊を礼拝し、仏教的な勤行を行うようになる。その时期は、初见の庚申待板碑が、文明3年(1471年)の造立で、室町时代の文明年间(1469年-1487年)を少し遡る顷と推定される。
庚申待が一般に広まったのがいつ顷かは不明だが、爱知県豊田市の金谷庚申三光寺の蔵している庚申縁起では寛仁4年(1010年)で、そのころに、守庚申の际の勤行や功徳を説いた『庚申縁起』が天台宗の僧侣の手で作られたとみられる。内容は、四天王寺庚申堂の由来を语る形式で趣旨と実践の啓蒙书でもあり、その始まりを大宝元年(701年)正月7日に尊记上人への青面金刚からの掲示によるとした。四天王寺庚申堂から口授で各地へ伝承され、庚申信仰は仏教と结びついて広まったが、特定神仏を选ばず本尊含めて多くの神仏と习合した。仏教と结びついた信仰では、诸仏が本尊视され始めるが各地庚申堂で本尊は违い、行いを共にする「庚申讲」が组织された。そして、讲の成果として「庚申塔」の前身にあたる「庚申板碑」が造立され出した。
また「日吉(ひえ)山王信仰」とも习合することにより、室町时代の后期から建立が始まる「庚申(供养)塔」や「碑」には、「申待(さるまち)」と记したり、山王の神使である猿を描くものが著しくなる。庚申信仰では、もともと猿が庚申の使いとされ、「见ざる、言わざる、闻かざる」の三猿をもってその神体とした庚申堂もあったが、やがて青面金刚が本尊とされ、三猿は脇に置かれるようになった。庚申塔も三猿だけだったが同様に脇に添え描かれた。
庚申の権能は各地で违うが、多岐にわたり、豊作、招福、厄除け、家族、和合・良縁、建筑、健康长寿、病除け、土地・道、诸芸、の神とされ现生利益が求められ祈られた。他に、男女同床せぬとか、结婚を禁ずるとか、この日结ばれてできた子供に盗人の性格があると恐れられたりする因习もあった。
仏教式の庚申信仰が一般に流布した江戸时代は、庚申信仰史上最も多彩かつ盛んな时期となった。このころには宫中でも、延宝4年(1676年)医师黒川道祐の『日次纪事』正月巻に、宫中の庚申の夜ごとに庚申の本尊として青面金刚に酒や菓子を供え、殿中の男女が饮食と御游するという形式へと変化したとある。
しかし、江戸时代后期に衰えを见せ、庚申塔は寛政8年(1796年)には近畿地方の庚申信仰発祥の北摂などでも、すでに珍しいものとなり(『摂津名所図会』)、山形県寒河江市所在のものが现存最古である。明治时代初めに路傍の石仏祠石碑や基础となった修験道が禁止され、以降には生活の変化とともに急速にその信仰が失われた 。
この夜慎ましくして眠らずに过ごすという习惯は、一部の地区で受け継がれている。また地域によっては、人々が相寄って催す讲も続けられている。それらは互助机関として机能したり、さらには村の常会として利用されたりすることもある。临时のイベントとして行われることもある。
青面金刚、猿田彦神
住宅街の庚申堂(西新宿の淀桥庚申堂)。青面金刚と三猿の石刻像が祀られている。
庚申信仰では青面金刚と呼ばれる独特の神体を本尊とするが、これは南方熊楠によればインドのヴィシュヌ神が転化したものではないかという。石田英一郎によれば青面金刚にはまた马头観音(インドのハヤグリーヴァ)との関连性も见られるという。
庚申信仰はまた神道の猿田彦神とも结びついているが、これは「猿」の字が「庚申」の「申」に通じたことと、猿田彦が塞の神とも同一视され、これを「幸神」と书いて「こうしん」とも読み得たことが原因になっているという。
注釈
「柏崎物语」は元本が军记ものの「総见记」とされ、その再编集本であり资料としては内容の信頼性は低い。とくにここで记述されている事実関係には信长は史実では下戸であり矛盾点が多く疑问がある。
出典
, 1章「三尸説の起源と成立」.^ 永井义宪「庚申経伝来考 - 成寻阿闍梨の舶送か」(小花波平六编『庚申信仰』雄山阁、2003年)初出は『日本仏教』16号、1963年 , pp.59–64. , pp.185–187. 塩入良道『入唐求法巡礼行纪1』(平凡社、1970年 2月28日 初版発行)p70 , p.192. , p.207. 小花波平六编『庚申信仰』(雄山阁、 2003年) , p.65-70.^ , pp.170–176. , p.174. , 第3章8节「庚申神の属性と利益」引用は、堀一郎『农村信仰』 , pp.17–19. 洼德忠『庚申信仰』(山川出版社、1956年)p.143 , pp.35–36. , p.48. , pp.32、218-219. ゲストハウス「犀の角」イベント庚申待2018年05月28日19:002021年4月23日閲覧 南方熊楠 『十二支考』「猴に関する伝説」 (青空文库) 中村禎里『日本动物民俗誌』(海鸣社、1987年) 9-14ページ 石田英一郎『新版河童驹引考』(东京大学出版会、1966年)参照は中村による。 饭田道夫『猿 よもやま话』(评言社、1973年)参照は中村による。 『富洲原小学校百周年记念誌』(1976年)P101 , pp.228–229(『西宫记』平安时代の有职书)に四天王寺庚申堂记载。^ , pp.229. 公式 京都市 , pp.198. , pp.231. 『奈良市歴史的风致维持向上计画』第2章「自然・神仏を崇拝する」-《(3)奈良町の庚申信仰》p.104-105 崇敬会公式 『葛饰区史』第2章「葛饰の成り立ち(古代~近世)」第3节「近世の葛饰葛饰の名所と行楽地:柴又帝釈天」2021年4月13日閲覧 绍介资料 公式
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